Hatena::Groupleftovers

庭には鳩、壁一面に付箋

2007-10-12

『ゲーム的リアリズムの誕生』

の理屈でいくと、こういうことか。

-対象=リアル対象=仮想現実
文学自然主義的文学ライトノベル
いわゆるブロガーはてなー

この比喩でいろいろ

キャラ萌えの可能性をラノベとの類推で考えることができるだろう。

座標平面が違うので、はてなー的な手法(メタ、vm、村プレイ、ほのめかしなど)にどれだけ精通しても、ブロガーとして議論できるための成熟には結びつかない。

んー、今更か。

気分の再生

下で書いていることの意味が、うっかりするとわかりません。自分にもわからないものは論理的ステップで説明しようとするのではなく、感覚に訴える練習をしたほうがいいのではないかと思った。

mml記法について

「また余計なものの蓋をあけおってムガー」と激怒するvmnobodyと「開けてみなきゃその先は見えねぇだろうが」と激怒するvmkusigahamaの喧嘩を眺めながらお茶を飲んでおります。

まぁ、なるようにしかなりませんというか、そこは運営者のレスポンスの的確さと素早さだろうから、彼らのその能力を信じるだけだよなぁと。

ただ、その素早さを、とんとん相撲によって支えてきたという自負が、古参のはてなーにはあるから…。

それとは全然別に、音楽って何なのか、ということをちょっと考えた。

予想(脳内で鳴っている音楽)→演奏→予想との差分=快感 というセオリーが、大雑把すぎるので、どんな音楽でもそこに収まってしまうような気がしてきた。クラシックであってもそうだし、PSG音源で既存の曲を打ち込んで「わーファミコンみたい」と喜ぶのもそう。

予想との差分=快感、という発想は、即興演奏や捻ったポップソングを初めて聴くときの意外性にとどまらない。知っているつもりの音でも、脳内音源とリアル音源との間には解像度の違いがあるから。

なので「PSG音源や初音某で遊ぶことは脳内イメージの安い再生産に過ぎない」「<だんご三兄弟>とか<ピクミン愛のうた>が売れたのと同じ」という文句は消滅した。

2007-10-10

自由と善についての断片(1)

a.

web日記書きという変態的行為をなすものとして何が善なのか、というのは書き始めた瞬間から始まるテーマだが、文書とURL=Permalinkという制約が価値観をある方向に引っ張っているのかも知れない。

よく、数百年後考古学者がA.D.2000年ごろの日本の文化を知ろうとおもったらブログのアーカイブを読んでいることだろう…なんていう空想で、Permalinkの思想が擁護される。あー昨日今日の話題に寄せてくだけて言うと「ブログは一回書いたら書き直すな教」が擁護される。

しかしこの、数百年後の考古学者という発想はちょっとロマンチックすぎるというか、SF的外延として素朴にすぎるという感がある。たぶん考古学が必要になるころには、エントロピーが高くなりすぎて回収できない状態になっているか、今書いているテキストがゴミみたいなものになる程度にコンピュータ上の表現のパラダイムそのものが変化しているかだろう。

あぁ、それだから、ゴミを撒くな、洗練された思考を書け、という話に戻るから、それはそれで都合がいいのか。

b.

考古学者のことを考えるのならば、書く日記はひとつかふたつのほうがいい。

グループ日記を渡り歩いて、**部のつづきは▲▲部で、なんてもってのほかだ。

それからidは変えるな。ブログのサービス提供者も変えるな。万が一変えることがあるなら、その記録を残せ。完全に引き払うならデータを取り出してアーカイブにして読めるようにしろ。

とにかく、注文が多い。

c.

小さなレベルの善のことを考えろ、という内心の声がある。

おとついNHKで、目の不自由な人向けの本の朗読(の録音が著作権法の枠内で認められるか)のニュースをやっていて、よいことというのはこうやって誰かがどこかに行きたいのを助けてあげることだよな、と思った。

d.

それから、もう一つの声の主張。

そんな小さな労力を払っていても得られる幸福なんてたかが知れている。進歩というのはもっとドラスティックに、技術の最先端が切り開く違う世界からもたらされるものだ。

はてなブックマークコメントが蝗に見えるならスタイルシートでコメントの行間を250%くらいにしてみればいいじゃない

自分の不快な感情がたったその程度のことで軽減されるということが本質だと思うのだが、こういうアイデアは、ごまかしだと思われてしまって、あまりうけない。

あとエントリのブックマークコメント一覧に直接書けない(遷移しないと書けない)というあたりに一片の良心が潜んでいると思うけど、これもあまり評価されない。

そもそもトラックバックの言及通知とポインタ自動表示は別の機能では

このへんからまだ見ぬ新しいコメント・トラックバックの仕様を考える。考えると思っても考えられない。そうだこういう案件はvmDocSeriを起動してエントリを書くようにしよう。

2007-10-09

なんかいい

おれは知り合いの女の子の日記をこっそり巡回する変態なんですけども、見た芝居の感想とか何処何処に行ってきてなんちゃら気分になってきたとか、分析ゼロで書かれてたりすることがあるのです。実際読んでいて胸が苦しいというか、あんたそれ同じ所くるくる回り続けるだけちゃうん? と思うんだけども、それは人の勝手であり芝居を見たからって自分のクリエイティビティが触発されなければいけないという義務はない。うーんしかし何だろうね。

初音某に関する未来予想

しばらく電波はこちらで。

  • アカペラフルコーラスの「Good Vibrations」を作る人登場
  • 今までほぼ無視していたオレが突然盛り上がり始める
  • 「今まで歯牙にもかけなかった奴がなんだいきなり、自分のフィールドに来たときだけ大騒ぎするおっさんキモイ」などと言われる
  • ネット発の文化を育てる気はあるのか?」という言語兵器登場
  • うるせぇ馬鹿、単なる楽器にネット発文化とかあるか、などと喧嘩がはじまる

追記

結局単なる楽器とどこが違うのかというと、自己顕示欲の市場ができているかどうかということだろうか。

ここを辿っていくと誉め誉めハッカー倫理みたいな話につながる気がする。

それで思い出したのでメモしとくけど、人を誉めるために☆つけるというのは理由の半分であり、あと半分はその人と何かの関係を結びたかったり、ヲチ対象にしたかったりという利己的な欲求。

2007-06-12

イナゴとは行為ではなく現象

そういう意味では赤潮とか言ったほうが適切。栄養どうこうはさておき。

どこであっても、自分は自分の一部を表出させているにすぎない。足の爪の垢のような場所を集める機構があって、その中をのぞき込んだらそりゃ不愉快だが、だからといって足の爪の垢があるということに、全力で怒る意味はない。

ひとりひとりの排出物に対して、綺麗な足の爪の垢と、きたない足の爪の垢をチェックしてより分ける、風紀委員的な気概があればまた別かもだが。

批判はスルーで、というけど、こういう話に「論理的批判」「感情的」「反論」「スルー」といった言葉を割り振っていることが、池田さんをぶちぎれさせている原因なのかもだ。

だからこれは、スルーしろよ、と言ってる側にも問題がある。脳直コメントはスルーされる価値すらないように文字数が制限されている。

「感想と一緒にブックマークすることが重要」なわけで。

anondに対しても思うことだが、「自分のブックマーク」「自分の日記」として、眺めることができるというのは、単なる掲示板とは性質が違う。

そういうものを使い続けることで何かが摩耗するかどうかはまた別の話か。

2007-06-07

Drop your name

持ちキャラに成長限界があるということがわかったので、キャラへの思い入れをクリアして、ジョブシステムみたいなものに変えた、という感じかも知れない。